プロフィール

1:両親の愛を求め自分を消した幼少期

父方は香川県にある神社、
母方は岡山県の起業家。

 

そんなご縁のなさそうなふたつの家が、
父と母が『学校の先生』という
共通の職業に就いたことから、
私が生を受けるに至りました。

私が育ったのは母方の実家で、
両親と妹の4人家族。

そしてすぐ隣の家に
厳格な祖父がいる家庭で育ちました。

 

祖父は忙しい共働きの両親に変わり、
小学校の頃から私と妹の面倒を
よく見てくれていましたが、

とりあえず『こうあるべき』が
凄く強い人で、
すべての思考や行動が
制限されていました。

小学校2年生の時に5年生の算数を
当然のように教えられたり、
おやつを食べるときは柏餅を
祖父と妹と私の三等分になるよう

分度器で測り、
鉛筆でお餅に線を引き、
それを切り分けてから食べる・・・

そんな日々が私の日常で、
”当たり前”でした。

 

今から思い返すと
祖父に本気で怒られたことはないのですが、
母から「祖父は怖い人だ」と聞いていたので、

怒らせないように
言われたことをすべてやってきたから
だろうと思っています。

厳格だったのは祖父だけではありません。
その祖父に育てられた母も
マイルールが強い人でした。

 

両親とも学校の先生だったため、
学校教育を外でも家でも
長年受け続けたことになります。

学校という場所は、
テストの点数・運動能力が重視され、
それが目に見えて良ければ
『優秀』と評価され、

そうじゃなければ『普通』『劣っている』
というジャンルに振り分けられます。

 

わたしは何をやっても
『普通』な子供でした。

 

いくら頑張っても『普通』。
それ以上にはなれない人。

両親も私のことを
「何の取り柄もない。だけど良い子」
と思っていました。

だからこそ、
何の取り柄もない私にとって
『良い子でいること』が
両親から愛されるための
<絶対条件>だったのです。

 

勉強もテストの結果が良くても悪くても
『絶対に毎日やらないといけないこと』
でした。

そうすれば『良い子』でいられたから。

こうして子供の頃から
「やりたいこと」を見つけるより先に
「怒られないため」
「いい子でいるため」

に顔色を見るクセがついていきました。

 

小学校の卒業アルバムに「将来の夢」
を書くところがあったのですが、
父が「銀行員がいいよ」と言った一言から
「銀行員だったら良い子なのね」と思い
「将来の夢=銀行員」と書きました。

 

夢を持つことより、
自分がやりたいことをするより、
愛されたかったから。

 

でも、時々会う父方の祖母は
「健康で」「元気に」
過ごせているだけでありがたい。

そう言いながらいつも私に向かって
手を合わせていました。

 

<両親&祖父>
良い子でいなきゃダメな子

<父方の祖母>
元気で笑っているだけでいい

 

そんな矛盾した教育を受けた
子供時代でした。

 

my story2:「大学進学で大阪へ」に続く